大企業で人を育てるということの難しさ

特にまとまった意見もないけど、すっかりはてな市民でなくなったことに後ろめたさを感じるので、最近なんとなく思うことを書く。

僕の場合、寝てる時間を除くと8割くらい会社にいるので、普段感じることがどうしても会社の話題になってしまい、イコール大企業とはみたいな話題になってしまう。そればっかりでもいいのかもしれないけど、うまく整理付けずに書くと愚痴っぽくなってしまうのが否めない。だから、ブログも避けてしまう。

それはいいとして、最近思うのは企業にとって人を育てるとは何だろうということが今日の話題。

近頃、売り手市場云々と言われて就職が数年前と比較したら楽になってるというニュースを見る。同時に博士課程卒は育てにくい云々というニュースも見る。その理由は、頭の固いやつは育てにくいっていうの企業側の論理から来てるらしいと。

実際、人事がどう思って人を採用しているのかわからないけど、少なくとも職場の声とはずいぶん違うんじゃないかっていうのを、ずっと感じている。

人を育てるっていうのは、その部であり課のカルチャーが色濃く反映されていると僕は感じているわけで、そのカルチャーの発起点っていうのは、いわゆる部長であり課長であるなと。どの会社もそうかはわからない。自分の会社だけを限定していうと、間違いなくそうだ。

そして、そう仮定すると、自分の会社のように部長課長の年代がバラバラだと、当の部長課長が若かりし頃にどのような環境で、どのように育てられたかっていうのが如実に現れて、イコール部の、課のカルチャーになってしまう面があるかな、と。

問題だと思うのは、企業のトップが如何に考えようと、人事が如何に考えようとも、その意図っていうのは、育てる対象の若い社員達が所属する極狭い範囲ではまったく効果を発揮していないのではないかということ。そして若い社員っていうのは極狭い範囲でしか見えない、かつ、見えないようにされている。

結局、いわゆる大企業病というのは、ある人の立場からできることは当人が歩んできた道、当人が見える範囲内の積み重ねでしかないことが逆に視野を狭めることが原因である、ということに帰結してしまうとしたら、不幸にもその場に投げ出された若い社員たちにできることはあるのだろうか。そして、それを近くとはいえ、結局別の範囲から見ている自分ができることはあるのだろうか。

入社して3年、周りに後輩が少しずつ増えるけれど、直属の後輩を持っていない身として、最近その辺を考えてばかり。

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